映画「空気に殺される」

松浦祐也氏がコメントに書いてくれたように「空気に殺される」は挑発的な始まり方をする。僕もこの始まり方が大好きな訳だけれど、あえて言うならそれは序章であって映画すべてを語り尽くしている。しかし、それはプライベートライアンノルマンディ上陸作戦や、あるいはシャマランのシックスセンスの衝撃のラストやハネケの隠された記憶の衝撃のラストとはまるで違う。それそのものとしての1カット、フィルムの切断面に挟まれたカット、がその他すべてのカットに溶接される、そして、またファーストカットに帰結する。すべてに開かれていると思われるが、それは限りなく閉じた集合体としての1カットで、映画という開かれた全体とは区別されて当然と考える。動く切断面。映画の中では物理的(この映画はフィルムだから尚更)な断絶が起こる。それは切って流すというモンタージュが、本来、創造の他に破壊を秘めていることを証明する。それは映画の全体を開かれたものにしたり、しなかったり。シャマラン映画の例。僕はシャマラン映画の中でもアンブレイカブルとサインが好きだ。それはヒーロー映画とSFコメディー映画のシミュラークルドリームキャッチャーはSFでもホラーでもない。ジャンルという便宜上の配分を無効にする内在平面的映画。フォーガットゥンでジュリアンムーアが宇宙の果てに吹き飛ばされる男をみるとき、彼女はプラトーに赴く。地平線に赴く。それはドゥルーズが言ったようになにものでもないなにものかになるこてすら出来るということ。一方で、バタイユが「もの」と言うとき、思考は何も「もの」だけを思考する訳ではない。

個展まで5日です。まだ座席数ありますので是非「空気に殺される」みてください。必見です。