クリント・イーストウッドが「最後のアメリ映画作家」と呼ばれるとき、いつもクエンティンタランティーノのことを思う。なぜかよくわからないが。イーストウッドが負ったハリー・キャラハンというキャラクターがイーストウッドフィルモグラフィーに呪縛のように刻印され続けるように、誰もがグラン・トリノをダーティーハリーの最期と信じたい。イーストウッドの映画史は単数的キャラハンが複数的に存在するというのは誰もがもち続ける密かな楽しみだ。一方、タランティーノの地平には世界中の映画史がある。それでもタランティーノアメリカ映画監督であり続けると同時に、安直に言えば、異端と形容されるような、流動的な模倣性を手放さない。それが、今、世界中の映画史を断続的に引き受けている。彼が改めて再構築の作家と呼ばれるのは、イングロリアス・バスターズダグラス・サークファスビンダーの流れを発見し、これがどうのこうの言うような、映画的教養と映画的快楽を十分に満足させた映画至上主義者の怠慢が、密かにそう呟かせるほどのもので、タランティーノアメリカで映画を撮り続けて行く以上、彼がノマド的新世代のアメリカ映画監督であることは間違いない。ただタランティーノが再構築の作家と呼ぶのはものすごく不快で、もっと個で語られるべき存在だ。次回、三谷幸喜タランティーノを共に語ります。日本で三谷幸喜ほど外国映画に呪われた作家をしらない。三谷幸喜は常に何かの間に漂流している。