映画を負う。

わたしとはーわたしである。というところの不快は無意識的な思惟が不連続におこなわれる否かということに対しての一種の人間信仰みたいなもので、ここでまず問題になるのは想像力の可能性である。想像力を想像力たらしめるものは、常に根源と究極まで自己を押し広げる思惟形式であると信ぜられた訳だが、そこにはより大きな困難と、それにもましてより大きな愉悦を言わば運命として負うという冒険が科されるのである。ここで次に問題となるのは想像力に先立ってその想像力を行使する自己や理性がどのように規定されるか否かということである。想像力はアプリオリな自己を知らない、という訳にはいかず、もし想像力がこの頭蓋の中から生まれるとしたとしても、半ば意識的な活動である想像力の行使が不連続な形で無意識的な活動を引き起こすだろうか、それは無意識が意識の副次的な生産物であるとしたとき、それは頭蓋でなく自らの足、もしくは腕、背中からやってくるとも言えそうな見オカルティックあ発送ではあるものの、想像力の可能性を究極の所へ押し広げるとすれば、僕の網の目から、まったく違うなにものかの媒介、あるいは実在に伴う模倣を免れ得るかどうかとは限りなく不可能性を帯びているのである。それは絶対不可能なものを想像力の果てにみてしまうことの困難、のっぺらぼうとの対面、想像力が連れて来る不可能そのものである。「自らを自らと思い得なかったところの存在の発動」それは想像力が負ってしまったが故の耐え難い困難の始まりなのである。「満たされない魂、それが事物の変化の原動力である」と言った埴谷雄高は最後まで自らを自らと呼び得なかった。自同律の不快。それは可能性から不可能性へと想像力を広げるための器官なき身体でもある。