26日の作家会議に来場していただく平澤竹織から映画「空気に殺される」の短評いただきました。

人は誰しも自分と異質な存在を恐れ、それを排除しようとする傾向を持っている。差別や偏見などの歴史的な問題は、人間のこうした性質に起因しており、本来それは
克服の対象とするべき〈弱さ〉だったはずである。しかし、「KY(空気が読めない)」という言葉の登場が顕著に表しているとおり、最近では、異物を許容できない者が悪いのではなく、異物であるほうが悪いという〈空気〉があちこちに蔓延している。『空気に殺される』という本作のタイトルからは、そうした時代の〈空気〉に抗おうとする意志を読み取ることができる。この映画には、物語がもたらす昂奮も、映像から得られる快楽もない。人間たちの存在がありのままに写し取られ、無為とも思われる時間がただ流れていくだけの、いわば「KY」な映画である。けれども、こうした身ぶりが今ほど必要とされている時代もないのかもしれない。シネコンなどで公開される商業大作は一人でも多くの観客に受け入れられるべく、自らに「KY」な身ぶりを禁じた作品群である。作り手は観客を嫌悪させ、不快にする要素を映画のなかから排除しており、だからこそ観客はその作品を観たときになんら痛痒を感じることがない。それはたしかに、観客にとって歓迎すべき状況であるのかもしれないが、映画が時代と結託して進める異物排除の動きには目を凝らしてお く必要があるだろう。
 『空気に殺される』が時として観客に嫌悪感を催し、不快な印象を与えるのだとすれば、それは監督である鈴木洋平が人間の、そして世界の汚穢を丸ごと受け入れているからである。出演者たちがこれほど素の自分をさらけ出した状態で映画のなかに存在しているのは、作り手が彼らの存在を全的に肯定し、受け入れるよう 努めたからだと見なすより仕方がない。そのことに思い至ったとき、この映画が時代の〈空気〉に抗う作品というよりは、どこまでも優しさの表象であることに気がついたのだ。
 
平澤竹識 (「映画芸術」編集部)