&ANDとしても活動する映画監督の川部良太から映画「空気に殺される」の短評頂きました。

 映画が始まった時、私たちは何を拠り所にそこで描かれる世界を見始めるのだろうか。
 たとえばそれは、物語への興味かもしれないし、登場人物への共感かもしれないし、
 あるいは まだ明らかにされていない状況設定への謎かもしれないし、単にそこで
 描かれる空間や時間の変化かもしれない。それらによってとりあえず、映画を見る行為は、
 それを見る動機が満たされていく過程によって保証され、見ることと映画の進行が
 同期しているのだと感じることができる。
 『空気に殺される』は、まず、そのことを映画における自明の構造として受け入れない。
 スタジオのような場所に4人の人間がいて、少しの間があって激しい演奏とともに映画が
 始まった時、それは態度表明として示されるだろう。そこにあるのは、ボヤけた姿で映る
 ギターとベースとドラムの手前で、身体を揺すりながら演奏に陶酔しているのか、
 あるいは陶酔したふりをしているのかよく分からないサックス奏者のフラフラと揺れる
 足だ。耳当たりの良いメロディや簡単に同調できるリズムがあるわけではない曲の中で、
 何を根拠に動いているのかよく分からないその足はグロテスクでさえある。

 『空気に殺される』には声だけの出演も入れて20人くらいの登場人物たちがいて、
 いくつかの出来事の断片と、それらに関係するいくつかの空間が、その空間的な配置と
 時間軸が不明確なままに描かれていく。出来事や物語を俯瞰する視点は与えられて
 いないし、登場人物の直接的な関係も明確ではない(というより直接的にはほとんど
 関係がない)。しかし彼(彼女)らの存在は確実に響き合っているように感じられる。
 冒頭の演奏の中で個々の楽器の音が明確なラインを形作ることなしに混沌としながらも
 ふと繋がったり、独立したり拡散したりしながらも同じ空間に響いているように、
 気まずい会話も、電話の声も、喘ぎ声も、隣りの部屋から聞こえてくる怒鳴り声や
 殴る音、そして嗚咽も、メールを打つ音も、鼻息も、外を走り抜ける車の音やTV
 ニュースの音も、それら空間を満たす空気によって振動している。もちろんその
 振動そのものを見ることはできないし、それら映画の断片は、空間的な繋がりや
 時間的な繋がり、物語的な繋がりという次元では互いの存在をなんら保証しないけれど、
 フィルムが物質的に繋げられること(それはある種の乱暴さをともなう)でかろうじて
 共振し、互いの存在を繋ぎ止めているかのようだ。
 と、このように音楽と映画の構造を重ね合わせて書いたり、フィルムというメディアの
 話をしたところで(それがこの映画にとってとても重要な要素であることは確か
 だけれど)、この映画を見たことにはならないのかもしれない。

 ただ、それぞれの映画の要素が確固として存在し隣り合っているにもかかわらず、
 それらが簡単には結合せず、単純に同調する訳でもなく、しかし共に存在することが
 できるというのは、描かれているモチーフのダークさにも関わらずやはりそれは
 世界の肯定なのだと思う。
 この映画は、映画には始まりと終わりがあって、世界には問題と解決があって、
 生きることには動機と目的があって・・・、というようなこととは別の感覚に
 貫かれている。それが何によるものなのか、今すぐにはよく分からないけれど、
 何かを見るでもなく何を考えているのかもよく分からないままただ目を開けている
 登場人物たちの視線が、意識の別のあり方を教えてくれているかのようだ。
 ワゴン車で撮影現場に向かう5人の男たちの視線、隣りの部屋から響いてくる女の
 うめき声(男に暴行されているようだ)を聞きながら壁を見つめる中年の男の視線、
 長距離バスに乗ってどこかに向かっている女の視線、ゲームに熱中する二人の男の間で
 行き場もなくただ座っている女の視線、彼(彼女)らは何を考え、どこを見つめて
 いるのだろうか。その視線は何を見るでもなく空中に留まっている。
 私たちは、冒頭のサックス奏者の足の動きのようには、物語や映像に陶酔することも
 できないし、陶酔した振りをすることもできない。だけれど、何かを拠り所とする
 ことなく映画を見ること、そこに視線を留め続けること、映画の中をフラフラと
 彷徨うことしかできないその不安と共に、しかし目をつぶらずに開けていることが
 できるのかもしれないと思った。
 川部良太