タランティーノの新作「イングロリアスバスターズ」ではナチスを映画でやっつけるらしい。比喩的でなく物理的に。

 テレビで放送されるようなズタズタの映画を作りたい。しかしそんなものは失敗作かもしれない。いろいろと考えた末、コント番組のような構成にすればいいだろうと思い立った。オムニバス映画とは違うが、テレビザッピング映画とは言えそうではある。またはテレビで映画をみることや動画サイトで映画をみることについてのプロパガンダ映画か。
 テレビの方法論を映画に援用することは目新しいことではない。しかしやらねばならないという自負は年々強くなる。<私はテレビから新しい映画の啓示を受ける>と語ったルノワールゴダールとの対談で映画制作におけるテレビ制作の方法論は自身の制作の進め方にさらに強い確信を持つようになった(数台のキャメラとマイクを使用すること、それだけのことを!!!)と語っている。1959年のことである。映画の黄金期と言われる時代の世紀末のことだ。ルノワールは映画館に足を運ぶ客が減るんじゃないか、などとは言わない。手放されている可能性を語るのだ。
 なぜ今、ズタズタ映画を作るのか。必死になって映画の暗黙を負ってフィクションを語ればいいかもしれない。日常に映画的と呼ばれるような光学的音響的な兆しを発見することが、フィクションを形作る始まりだとすれば、それはニコニコ動画に投稿されたコメント付きの映画を映画的に二重の意味で発見し、それを得意になって嘆くことではなく、観ることを容認することではないか。それは暴力的な肯定力でもって映画でなないものと信ぜられたものを映画の域に帰すことである。それは映画が何ものかによって犯されていると信じることなく、映画を救うことである。本当は救う必要などないかもしれない。映画は何ものにも犯されない。犯されるのは映画の本性そのものと言っていいかもしれない。しかし、あまりに映画の低迷が語られる。その不快感が映画を作りたいという原動力になっている。埴谷雄高が言うような創造的ニヒリズムをこめて、不幸なことを得意になって語ることではないやり方で、映像と名の付くものすべてをザッピングの如く一種の暴力のようにモンタージュを強いること。誰しもが現代的な映像感覚の表象を無自覚に負ってしまったことを皮肉と慈悲と共に、それ自身に加担すること。僕らは常にみている。電車の中のプロパガンダ。新宿での創価学会のCM。テレビドラマとCMのモンタージュ。これは映画じゃないと断言する前に、存在する映画だけを語る前に、存在にいたらない、もしくは存在すしないことを選択した映画、すなわち、誰もがもっているはずの暗い頭蓋の中にだけ存在する未出現の映画のために。
 映写される映画とは別に、放送される映画は、あらゆることを強いられる。吹き替え映画への偏愛はあったとしてもCMによって引き裂かれた(悲哀と歓喜を込めて)映画への偏愛というものはないだろう。僕は映画を語る前に僕を育んだ映画について語る必要がある。それはある世代が負った宿命であって、決定的な分岐点である。未だ覚醒には至らぬこの世代が負った映画的知覚は不健康極まりない。携帯で映画をみる。動画サイトの引き裂かれた低画質をみる。そして今になってテレビやインターネットなどの大型メディアだけではなく映像と名の付くものすべてに映画が犯されているなどと考える。そして誰かしらが映画は死ぬと言う。いい加減にしてくれ。映画が死ぬ。殺したのは誰か?誰もいない。それを口走る誰かがトドメをさす。批判の世代の遺産は反動的ではないやり方で暴力的に肯定することだ。映画は最初から死んでいる。いかなる神性も超越性もありゃしない。そいつは露出狂だ。作られる以上に観られたがっている。下劣なまでに資本主義的欲動を備給する。そいつは資本主義の墓場から生まれた鬼太郎。死ぬことはない。いや死ぬことを留まっている。お前が死ぬまでに。何か面白いことがあるかもしれない。見逃す訳にはいかない。その点で我々と同じだ。