ギードゥボール特集は見逃せない

故意にこれを読んで数分間はこの続きを書くとか本を読むとかトイレにいくとかはさておきいよいよ1時間前存在の前に不動の自己証明となる行為を懇願したおのれの存在を思う。不動、あのときはそうだった。一千の瞬間にも自在の間の中に留まることを選んだ主体性が物質としてのおのれをここに留めている。7時半のことを自分は考えもしない。この線上から、いや自分は垂直に動きたい。夢想が夢想であるままのときの存在から人間であることの快い気分とその裏、すなわち人並みの食欲睡眠欲。
秘密基地、緑川こずえ氏よりお借りした「ポリーマグーお前は誰だ」のDVDを観て1年。ウィリアムクライン監督。テレビ局の人物ドキュメントを受けるポリーマグーの物語。そこで描かれる夢想はテレビ画面を通過する。ザッピング映画のことを思う。パルプフィクションのような映画ではなくタランティーノの方法論のこと。映画史を模造することで映画を作るということ。クリントイーストウッド以降で西部劇が変わったと言われるように。ジョンウェインは断固として後ろから撃たない。イーストウッドなら簡単に後ろから撃つ。というジョーク。第47回カンヌ映画祭パルムドールパルプフィクション」。審査員長はイーストウッドだった。タランティーノの方法論への興味はクローネンバーグのヒストリーオブバイオレンス以降への興味に似ている。またはシックスセンス以降のシャマラン。パクリを認めないと嘲笑されるシャマラン。ハプニングで実験の三か条を暗唱するマークウォールバーグ。奇病のことが微かに分かったように思われた。しかし、それはフリだった。死を覚悟して外へ出るが死なない。死ぬことを留まっている。それを微かに証言できるのみということだけ。死んだフリすらできない。あれはゾンビ映画の作り直し。