なぜロメロがダイアリー・オブ・ザ・デッドを撮らなければならなかったか。

最近、デジタルビデオ撮影のスプラッターモノをよくみる。監督・脚本マイケル・ホフマン・ ジュニア。確か編集も。編集兼任で思い出す是枝裕和。「歩いても歩いても」あの開き直った芝居とどうでもいいカット割り。とは違う。北野武風でもない。きっと僕らと同じようにデスクトップと向き合う監督を想像する。
全編に施された懐古趣味的フィルムスクラッチ風のエフェクトと相反する薄っぺらいビデオの質感にはもうみなれた。あーフィルムのフリか。と思えるようになっている映画脳は健康的とは思えないにしろ、それはどうでもいいことで、気になったのは裁判シーン。このシーンだけが、エフェクトを拒絶するだけの力を持った生身のフィルム的ビデオ映像だった。それはテレビでよく目にするような見慣れたドキュメント風だけれども、この映画は流行のフェイクドキュメンタリーではない。監督のスラッシャー狂いの趣味と相反するハプニングなんだろうけど。例えば、ナイト・オブ・ザ・リビング・デッドの中で写されるTVニュースとは違う。「吸血処女イレーナ」の冒頭のリナ・ロメイの股間クローズアップを執拗にみせられるような気分だった。けどこれはビデオだった。なんの違いがあるだろう。今、クローバーフィールドやパラノーマル悪ティビティーか。もしくは、ゾディアックやパブリックエネミーズか。その二者択一を迫られるような病気が流行ってる。なぜロメロがダイアリー・オブ・ザ・デッドを撮らなければならなかったか。それを十分に考える。