ロベール・ブレッソン弾劾しよっ。

ブレッソンは音と映像のリレーだと言った。最近、すべての日本映画、もしくは吹き替えの洋画はすべてブレッソンのいうシネマトグラフに強制的に回帰させられていると思っている。ブレッソンはトーキーが沈黙を発明した。とも言った。ブレッソンは「観客はすでに知っている」と考えているのだろうか。観客にこそ、であるかもしれない。今、というか、依然として、観客と映画製作者、あるいは映画業界人に強制的に分裂させられた不特定の人間たちに向けて映画が作られる。「誰か」のため、「物」のため、それらを分断せずに同一に思考しなければならない。ブレッソンを弾劾しよう。あまりに偏執狂すぎるし話し方も挙動不審で、誰もが「まったくブレッソンって、ほんと・・・・」って言う。かもしれない。音を考えるあまりに、「映画の足である音」と「映画の胴体である画」を切断して、足だけの妖怪を作ってしまった。

その妖怪。映画製作者の技術的な欺瞞。数十年前のキャプテンEOにおける3D映画が市場原理に屈した過去がまた繰り返される予感を噛みしめながら、一種もうここまできたらどうでもいいか、と映像技術の革新を無視することにしたとしても、やはり、その欺瞞は映画製作者を自らの言説の内に擁護しようと努める人間にはまったく無自覚で、お前たちにはすでにカメラを(録音機材ではなく、どこまでも撮影機材!!!)を与えられているじゃないかと弾劾されるしかないのか。また、その話しかと、ここは最大限の軽蔑の念を込めて言いたい。映像に弛緩しきった脳みそ根こそぎやられてるのはお前たちじゃないか。

19日からフランスでゴダールの新作「film Socialisme」が公開される。予告編をみた。聞こえたのは風の音だった。よく知っている音だった。