「もの、物、者、もののけ」

常にこんなことはすでに考え尽くされている。と自戒。一方で考えつくせないこと、人間の思索がまったく持って及ばないこと、本当の意味で不可能なもの、これについて思索すると言う誤謬に満ち満ちた思索。埴谷。ここ数年はずっと埴谷雄高の「死霊」の先を勝手に作り上げるべく映画「です、ます、でして、死す」への至るための道程に過ぎない。なんとも遅々とした歩みである。埴谷の沈黙に比べれば一瞬に過ぎないようなものだが。この沈黙がむしろ沈黙することでしか語ることのできない思索性を生むのは確かだ。「死霊」の矢場は失語症だった。唯一物語の中で矢場が独白するくだりは夢魔の中だった。沈黙の中でむしろ自らの内では饒舌を極めていたのだろう。そこで一体何が考えられていたのか。例えばここに在るコップ。コップはコップで何かを考えるはずだ。埴谷は靴下と言った。タモリ寺山修司のモノマネをしながらマリーゴールドがコップに生まれ変わったとしてもそれはひとつの自然であると適当なことを言っていた。それが頭に残った。