映画「空気に殺される」について

山本七平氏の「空気」の研究という著作より 「物質や物体に何かしらの臨在感を感じそれに言論、行動等を規定される第一歩は対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。従ってその前提となるのは、感情移入の日常化、無意識化、生活化であり、一言で言えば、それをしないと「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。」とある。つまり空気の物神化ということになる。そしてこれを絶対的なものとし人間を統制する力としての「空気」は日本人がもつ固有のの宗教観であるとも言う。それは、もののあわれ八百万の神々、などの言葉にも見受けられるように思う。僕は無宗教という宗教についての映画を撮りたいと考えていた。それには現代的な、何にも似つかない、日本独自の神をどこかに見出す必要があった。そしてそれは多分「物質」以前の前個体的な存在=「もの」ではないかと考えた。物質は何かしら人間に知覚されるだけの強度を持ち、その存在論的実在は模倣を前提としている。一方人間に知覚されるが、何ものにも似ていず、それでも名前がある「もの」「もののけ」すなわち霊的なもの、があらゆるものの存在を覆い、「もの」が「物質」を覆い隠すということがあるんじゃないか。これが山本氏のいう臨在感的把握で、これを物神化というんじゃないかと思った。そこでマルクスが生産、消費、余剰価値、物神化ということを言っているのを思い出した。例えば、「意味されるもの」の過剰生産過剰消費は貨幣経済における余剰価値のようなものを引き起こす。それは意味の余剰価値と呼べそうなもので、それは虚構が現実を覆い隠すというか、意味が現実を覆い本来の現実を飽和状態にする。それは現実と虚構の古くさい二元論ではなく虚構の一元論であって、これが日本の場合、八百万の神々などの確固たる前提があるものだから、物神化は起りやすいんじゃないかとも思った。「空気」を英訳する場合、適切なものはなく、「アニマ」に相当するものと言えば伝わるらしい。アニミズムとは物神論である。「アニマ」はアニメの語源でもある。アニメ、フィギュア、KY。なんだか、ここまで分かったときこれなら映画に出来るんじゃないかと思った。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

さて映画「空気に殺される」上映のお知らせ。4月の下旬にLatitude☆Pというギャラリーで上映することが決まっている。http://www.latitude-p.com/index.html 詳細が決まり次第ここで発表したいと思う。今回はギャラリーならではの上映になる予定だ。今のところ、&ANDとして活動する、池田将、川部良太、両氏が僕の映画を解題するためにやってくる。2人についてはここで書きたいと思う。