蓮實重彦氏を負った世代の倫理学  あるいは空気に殺された映画

映画の倫理学を書かなくてはいけないと思った。というのも未だにあれかこれかの二者択一を迫られているように感じるからに他ならず、これがまったくもって自己の問題でるにしても、このもつれたと形容できそうな映画的感性を生産したと思しき極点へ回帰して思考しなくてはならなくなってしまった。今はただ単に「映画史とは殉教の歴史である」と言ったドゥルーズの言葉が宙づりになったまま真実としてではなく、事実として重くのしかかる。
ゴダールは「トラッキングショットとは映画における倫理の問題」だと言った。蓮實重彦氏の著作に書いておられた。それは自己、理性、道徳を内包した倫理ではなく、自身の創作意欲を絶えず更新していくことを可能にもしうる倫理である。専ら最初から自由であるとか、自由という刑に処されているとかでもなく両者を横断する倫理である。ゴダールは自身が作り上げたものを飛躍するために否定的と思われるやり方で自身を飛躍する。それは言わば解体と呼ばれそうなものではあるが、僕はそれを構築的だと思う。愚直に言えば解体するものだけが眼前にある訳ではないからで、その点で僕はゴダールほど構築的な作業をし続ける監督を知らない。点。映画は観念的な点としてこの時空間の幅を軽々しく飛躍するからこそ言わば点と呼べそうで、それは現在性というものをまったく無視することが出来る点でもあり、やはり観念的点であると言えるが、それは象徴的であるが虚構ではなく、観念的でであるが抽象ではなく、いつ、どこで、そいつと出会うか、ということが問題で、ともすれば、好き、嫌い、許せる、許せない、と言った二者択一を自らに運命的に突きつけるのである。これは倫理の問題である。一方で論理と詩の婚姻を実践した埴谷雄高にはそう言った文脈での倫理はないように思われる。こうした倫理が及ばない遥か彼方のアンドロメダを指向する埴谷雄高は白紙の前で自らを自らと思い留めないために自らを自らと規定せずに自らの背後に百の目を持って白紙を前にして筆を折ることで白紙に向き合うことを実践した。事実、死霊は未完で終わってしまった。ここで問うのは監督という著名である。それは映画の前に監督が絶対者である根拠がない監督のことである。それは責任問題、やはり倫理の問題である。そこでは詩ではなく論理が勝っている。しかし、イメージの反乱もまた違う。問題は論理と詩の婚姻なのである。倫理は人間存在が加担し続ける運命的足かせなのか。言わば映画を特権的に肯定することが倫理の問題を複雑な二元、三元・・・論にしているように思われる。その点であれか、これか、の二者択一を負うことがどうにも古くさいというか、下らなく思えて仕方ない。例えば映画を思考するとき、一体映画は自らの足になることを欲しているかと問うこと。それは映画が映画たり得る根拠ではなく、数々の破綻を生む根拠である。それは破綻の善悪を根拠づける倫理である。その前に未出現の映画が映画史を覆っていること。そいつは実在している。それは映画産業のそれでもあるし、ある映画の実現を夢みて完成に至らなかった映画を暗い頭蓋の中だけに持つものすべての映画のそれでもある。すべての存在が自分だけの映画を持っている。そこで作家性と商業性の二項対立に足を取られる必要がどこにあるのかと今、安直な命題をたててみる。それは万田邦敏氏が映画監督はゴダールヒッチコックの間で引き裂かれると言っておられたことに対する批判である。それは映画を人間と人間との間、不確定の中心としての監督と映画の間で言わば映画内戦状態を起こすということで、それは映画を悪しき弁証法の網の目にかけることではないかという批判でもある。蓮實氏は「映画の歴史とは、人びとが映画と信じているものの輪郭をたえずはみだし、そこから思いもかけぬ方向へと広がりだしてゆく抑えがたい運動の歴史にほかならない。」と書いておられるが、やはりその運動を断続的に配分した功績こそが、一方で逸脱の映画史を形作ったということを根拠付けている時点でやはり弁証法的なのだと思う。それは映画という名の下で映画を特権的に肯定、あるいは否定することで何より映画を引き裂いたということである。僕は単に毛嫌いしているのでもなく、論破したい訳でもない。これは一過程で、まさにプロセスそのものというか、これはこのプロセス上を生きる上で用意された過程だと思う。そして、そうやって抗うことがいつか宿命付けられているとさえ思う。それは今、見るからに誰かと誰かの間で引き裂かれたと信ぜられた映画そのものがみるもの、それは自身の意識とはまったく違うところに存在していると信ぜられた映画そのものを思考してやるための一過程なのである。なぜなら引き裂かれているのは映画が実在している時間だからだ。点のように存在する映画の時間を思考するには、追いつくか、追い越されるか、または無視するか、しかないように思われて来たように思う。それは今まで潜在的なままの観念としての映画が重んじられて来たと言えるかもしれない。それは映画の前で観客となったものが結果的に事後的に投射されたものである。または映画における字義通りの意味作用をどう思考するかを宙づりにしたまま、映画における文化的ないし心的知識を媒介した意味作用の潜在性を思考してきたと言い換えられるかもしれない。映画におけるデノテーションの問題を誰もが無視してという訳ではなく、それは映画における観念論を重視する志向性が生まれたということだ。映画は唯物論的だと思う。DVテープのデジタル化された光の個別性はフィルムに比べれば排他的っであるという区別を除けば、物質以前に「前個体的な光」なのだと思う。それは人間が糞をするごとくに似ている。人間の生産物と機械が生産する糞的な光。未だそれ以外で何か生産したことがあるだろうか。それはファンタスムであって、貨幣経済の負った運命である。そして未だヒューマニズムという名の足かせをも負っている。僕は恋空に感動し涙を流した人間の映画的感性と恋空をキューブリックとともに語ることも恋空で爆笑することも同じ映画的感性の感動と容認したい。爆笑と歓喜の声が渦巻く映画館を単に穿った映画的感性の拠り所とすることを否認する。自己の眼前に映画が存在していることを幸福に思う。主観的だとか客観的に映画を思考することではなくそこに生まれることを選択した映画をすべて祝福したい。 埴谷雄高は夢をみるものは作家になれると書いたが、こうも言っている。「わたしはそれを自分のみる夢に留めない。あらゆるものすべてが夢をみる。こうなりたい。」やはりこれは倫理の問題だ。