です ます でして 空気に殺される

である。であって。日常会話の場合、です、ます。自分が発する言葉に明らかな違和感を持ちながらも不自然に使ってるふりをしてしまう言葉の数々がどこから生まれて来るか考えてみるのだ。のだ。ズラ。それもまた空気的な権威であるなどと今は言いたくないが、言わば、無神論多神教の一形態であるように思えるなどとも思ったりするが、、が、がが続く。今こうしてこの文面を書くに至るまでの省略された時間をこの文脈にこめるなどということがおかしな信念であってもハッタリであってもどうにかこうにか願うしかないが、僕はウレセンだと思う。co2映画上映展での舞台挨拶でもそう宣言したつもりだった。そこで僕はビーズを使ってワンプラスワンのリメイクをやりたいと言った。僕は恋空をみて感動したので、ガッキーにマルクスを読ませたり、派遣労働者武装してもらい、そしたら、誰かと商業路線とは一線を引いた誰かとか、そんな人間がいるか不明だが、その間で引き裂かれた映画が誰のものでもなく、それらの間で、映画としての価値を取り戻す。平面上に映画が帰って来る、などと夢想したがそれはウレセンの発送ではないと思った。なのでゾンビで町おこし企画の話はまたの機会にしようと思う。けれどやっぱりみんなハッピーじゃないか。女子高生にゴダールプロパガンダするなんて健康的じゃないかと思った。が、が、「が」で引き裂かれたという前提をまず己が捨て去るべきであって、これでは堂々巡りと言えそうだ。一体誰に向けているんだろう。無差別殺人では本当に殺したい人間は殺せないように思う。それは存在を不動のものと容認するという名目とは思えない。不在者になる夢。では不在者になる夢をみせるのは誰か。何ものか。ものか。同じものと信じた言葉で攻撃するしかないように思われる。同じような言葉をもってして、見せかけの言葉をもっていして、が、横での繋がり、の強度、他者が、他もの、が存在するんだという無根拠な前提が何人かに生きる意欲を与えていることを容認したい。今日、松浦祐也氏に頼みこみ、役者の山本剛史氏に取り次いでもらい、映画監督の柴田剛氏とお話しする機会を頂いた。あらゆる思考があらゆる人間性の思惟形式を貫通し「と」で繋がるとは素晴らしいと思った。思索、そいつを思考すればそいつはいつでもやってくる。らしい。匿名で。