[日記]テレビ

ジジェクの『ロベスピエール毛沢東』で「24」シリーズについて語られている。その高度に商業化されたドラマは1話の3分の1近くが広告宣伝に費やされ、それを含めた1時間が1話になる。「あたかも広告宣伝という小休止が、複数の出来事が同時進行する物語の展開に、奇跡のように、ぴったり合致しているように、構成される。つまり、視聴者は同時進行する複数の出来事から休憩をとっているが、視聴者が広告宣伝を観ている間にも、出来事が進行しているかのように構成される」と書いてある。これはドラマ構成自体の説明部分で、この論文の核心はこれ以後に書いてあるが僕はここに書いてある「奇跡」についてあれこれ思索した。ジジェクは「24」シリーズにおいて「広告宣伝は小休止という中断性を消失しているかに見える」とも言う。普通、ドラマが広告宣伝に入る直前のカットと広告宣伝の始めのカットにどんなモンタージュが成立したか、あるいは、しないかなどと話すことはないが。そう言うには惜しいような奇跡的なモンタージュを見たものが、かつてあったはずである。広告宣伝上の時間軸と物語上の時間軸が、私生活と虚構を貫通し、新たな時間イメージを生む、とでも言えそうで、すでに手渡されているリモコンを握る手が、小休止を切断する、あるいは小休止を強制する。自らが編集者になり乱雑なモンタージュに加担しないでもないのである。いつどこで黒髪から白髪頭になったか分からないNHKアナウンサーから、一体何に繋げようかなどと夢想することも有り得るだろうこの手がなんだか妖怪じみてくること。秘密基地の山本氏から聞いた話だが、かつて従兄弟が24時間テレビを24時間観続けるという偉業に挑戦した明くる日の朝、狂気の前兆の中、天気予報が全国「雨」だったということに爆笑したと言う。さて、それはテレビの独自の楽しみ方な訳だが、なぜそういった見方をする必要があるのか、眼前でお笑い芸人が必死に繰り出すギャグに沈黙し、なぜ24時間テレビを24時間観続けなくてはならないか。なぜ朝方にマクドナルドに入らなくてはならないか。ジジェクは「それは切迫という全面的に滲透する感覚の倫理的次元である」と言う。一方、CTUがテロリストを拷問するとき。「何百万もの人々の生命が危険に曝されているとき、通常の道徳的感心を示せば、敵の思う壷だろう」任務のため中国領事館を襲撃し国際問題を危惧し偽装死を企て、存在しない人間になることを選択した彼はなぜ、MA−1にティアドロップのサングラスをかけるのか。かつて活躍した80年代ヒーローの懐かしさと、もうこの時代に荒くれ者式(=メル・ギブソンの最終兵器)はグローバル資本主義のダイナミズムの中で成立するであろう正義のためには戦えないと自覚する倫理的な問題を抱えたニューヒーロー/ジャック・バウアーをみずにはいられない。だからジャックは上司や同僚を殺さなくてはならなかったし、メル・ギブソンは自らの神話化に勤しむ。それは後期「男はつらいよ」シリーズの寅さんの悲哀でもある。もうフーテンではいられないかもしれない寅さん。もう葛飾柴又の団子屋に寅さんが帰ってくるところから物語を始まることが出来ない。フーテンの寅さんと高度経済成長からバブル崩壊までの日本資本主義そのものがとって変わったのである。それは寅さんのシュミラークルが物語の確固たる前提になることでもある。もうフーテンではいられないかもしれない寅さんが映画外的コード(=近代日本ではフーテンは虚構的現実)によって、寅さんは寅さんの世界からも逸脱しかねる強力な磁場上を横断することを強いられる(=フーテンの寅さんという映画内的コードが寅さんを束縛する、すなわち寅さんはフーテンであるしかない)という意味で2重に切迫する寅さんの悲哀。それはヒストリーオブバイオレンスのヴィゴ・モーテンセンに暴力の歴史ではなく、暴力映画のシュミラークル、すなわち沈黙シリーズセガールの悲哀をみることでもある。そうみずにはいられないという欲望が虚構の物語上を縦横無尽に横断する、その欲望が流れ出すだけの隙間と、それを受け入れるだけの口がある。そこではあらゆるジャンル的配分は問題にはならず、まさに自らの手がテレビとテレビ外に新たな線をひくというノマド的思考がテレビの広告宣伝と白髪頭になったNHKアナウンサーを繋げる。これはリモコンが何か恐ろしい妖怪じみたものに性質をはらむ魔法の杖として存在しているということではなく、それは自分自身が妖怪になるかもしれないし、ならないかもしれないという不可能性が「映画外的コード」として示されているということだろう。そうだとしたら字義通りの意味で物語を楽しむ前提など、もはやとっくに転覆させられているのか。ゴダールにはもう誰も異化されないかもしれない。それだけ虚構の余剰価値が現実を覆ってしまったというニヒリズム。それを行動的ニヒリズムに変えた埴谷雄高は「スクリーンのなかの華やかな人物たちにあまり興味がなくなり、その背後の遠景に見える微かに揺れている樹木の梢や、激しく戦いている草の葉といった部分にばかり妙に気をひかれて、さながら漠たるなにものかが目に見えず広がっている虚無の空白のなかにぼんやり沈んでいるような不思議な感動のなかにひたりながら、遠い闇の向こうにある黒と白の画面をぼんやり眺めている時期があった」と『映画の不気味さ』という論文の中に書いている。そして、それは「怠惰の鑑賞法」と命名されている。四角形の画面を凝視することを身をもって妨げることで我が家に侵入してきたテレビは、その上に積まれた本のタイトルとテレビの内容を結び付けることを容認する。テレビが家にあるからそうなるのであって、何よりもテレビが先にそれを容認し朴訥とそこにいる。怠惰の鑑賞法はマクドナルド式に開かれている。それは頭蓋の中で、チェ・ゲバラ座頭市を同時にみること。そうすることを『媒介』そのものが引き受けた時点で、僕はテレビ引き受け、その画面を凝視する。そこには、ジャン・ルノワールゴダールとの対談においてテレビの撮影システムから多くを学んだと言うように、まだ多くのなにものかが潜んでいそうで、制作システムが腐りきっているとされる現代日本映画と僕が手を結ぶ一点は限りなくこの点にあるように思う。恋空のレイプシーンの異化作用。しかし、これは限りなく不健康なことには変わりなく、やはり、何の不安もなく、ジブリ作品をみて泣きたいとも思う訳だが、やはり不安は残る。ゲド戦記のあの暗さに、父、宮崎駿への反動を感じない訳にはいかない。不健康でいて、ゴシップ精神的。埴谷雄高もいつしか怠惰の鑑賞法をやめたと言う。
という訳で「ザッピング・ナイト」というテレビを見ながら話すだけというイベントが出来ないかとこの間の川部良太さんの個展の後で池田将さんや秘密基地の山本氏と話した。これは実現したいと思う。

かさねて「空気に殺される」をよろしくお願いします。