誰か殺したかもしれない

カメラを持つことが選択肢のひとつになったときから、カメラなど持ちたくないかもしれないと思うようになった。そのころ携帯電話を買ったがまだカメラはついていなかった。ポケットにカメラをしのばせておきながら使わない日々が今は続く。きっとわれわれの世代はフィルムの教科書をそのまま映画制作に適応させられない。それは様々な理由で。カメラを向ける人間を至る所でみる。カメラの暴力性の問題がカメラの自立性へと取って代わるのを目の当たりにしたと言えるかもしれない。カメラがあることでカメラを使わないことを選択しうる映画制作は誤謬だ。しかしこの誤謬を容認しないわけにはいかない。これは倫理の問題だ。個−倫理、ではなく共−倫理的問題。この倫理は絶えず、自己と、他者の間で、どちら側へも起因することなく、狭間の深淵の内にある。内、と言っても、それは単数的な個人の外とも言える。複数であって単数の存在。もはやカメラを持つことを選択しそれを何ものかに向けることが問題なのではない。安易にカメラを使用できることで映画の乱雑さを助長するなどと言うことも違う。それは出現したいと願うものたちを統制する社会的問題ではない。未出現は出現以前に出現している。未出現という名で分節化されたにすぎないというだけでは不完全な出現の尊さ。それは、ある。世代間の断絶。あるいは同一性の発見と憧れ。短い数語の内に職人的な力を持った分厚い印象を与える重い言葉。しかし、尊敬の念と同時に、目の前に積み重なった宿題のようなものを運命的に発見してしまうのである。それは克服すべきことではなく、きっと肯定すること、そして、後世に自らが加担した問題を残すであろうことを危惧すること、いや、そんなものはどうでもいい。もの。ものを肯定し尽くすこと。


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