vo1終了。次回はvo2。

先日の個展に来場して頂いた方たちに感謝しています。人前で話すことに慣れていないというだけでは言い訳にならないほど意味不明なことをしゃべり続けたものだから、なんのこっちゃわからんという方が多数であったように思う。何より池田将さんや川部良太さんや平澤竹織さんなどを巻き込んで訳わからない人たちという印象を与えてないか不安だ。彼ら個別の活動にも興味をもってもらえただろうか。今度は是非彼らの活動に接してほしいという願う祈るしかないときに現れる神聖を信じずに祈る。

今日はこの日記をここから読む人も以前から読んでいる人も個展に来たり来なかったりした人にも分かるように書きたい。それは個展の2日目の作家会議で観客が発した質問のことで、その男性は僕に「新しいものが作りたいか」と聞いた。僕はそんな欲望もあると答えたが、その後、それは違うと思ったので、新たに答えるとすれば、「作家は新しいものを作ることを強いられるだろう」と言えそうだということだ。それは限りなく模造という作品の内にひとつの属性としてはらんだオリジナルなきコピーすなわちシミュラークルになる。実在するものは何かしらの形象を手に入れるしかない。形象を克服するものはつまり自らの頭蓋あるいは腹に秘めた未出現のイメージ、もの、しかし、実現するものはすべてそのイメージを裏切った形でしか出現しない。それは実在するものの負った運命的な存在論である。その運命とは同じようであって、絶対的に同じものは存在しないという運命であるが、その内には模造という属性を秘めずにはいられない。紋切り型ですら新しい。では新しいものを作りたい欲望させるものは何だろうか。その前提はやはり、貨幣経済すなわち資本主義だろう。その点この前提を完全に克服することが問題ではない。この前提なしに映画の存在論すら成り立たないくらいに映画は人にみられることを欲する。作った人間よりみる人間よりも映画はみられることを欲する。映画は資本主義的であるしかないかもしれない。ファシストにも勃起する。そのことをどう引き受けるかはどうでもいいことで、引き受けようが引き受けまいが、そこに生きることを宿命づけられる。映画は自己顕示欲すら凌駕する。それは現実世界とはまったく違う次元で漂流する抽象的であって象徴的な形象なき不確定の中心。今、現在、知らないアドレスから白紙のメールが来た。これはなんだ。僕はよくこういう体験をする。個展初日の25日のどしゃぶりの朝も、自宅付近で、知らない男に「おまえたちのせいだ」と言われ棒で叩かれた。その夜、棒だけが自宅付近に落ちていた。