秘密基地はカストラート。

秘密基地の音楽は自家カストラートを施した教会なき教会音楽と言えるかもしれない。秘密基地の新作CD『全日本秘密基地連合』を聞きながらそう思った。
安易な創造、と、ここで総括することにする一連の愚劣を弾劾することすら已然として愚劣を愚劣のままに留める類いのもので、ここで言うべきことは、伝統とはかけ離れたそれっぽいものの違和感、あるいは鈍い意味、はオリジナルなきコピーとして新たな魅力、あるいは愚劣、をもたざるを得ないということと、それは起源も現実性もない実在で作られた超実在であって、ここで伝統と言ったものとはかけ離れた方向へ向かう力が合わさるところに存在している。あらゆるものが作られ過ぎた後、陥らずにはいられない偉大な失敗作。レッドサンをサービス過剰とみるか否か。アランドロンと三船敏郎を同じ画面でみることに興奮するか否かである。我々はある教義を必要としている、がそんなものは必要ない。しかし、それは西洋音楽史におけるキリスト教を前提とした教会音楽はどこでも同じ歌、全員が男でなくてはいけない、という古典主義、または睾丸を取られた少年カストラートを欲する古典主義などではない、それそのものは西洋的なジレンマである。東洋音楽は主に口述などで伝搬されてきた。最初からそんなものはない。

秘密基地のコンサートは今月20日らしいが場所も時間も分からない。後でメンバーに聞いておくことにしよう。