生産者としての映画人

映画史に手をかした懐古主義的な映画人が現代の映画人を読むときの中傷は映画の区別だ。便宜の上でアーカイブ化されたジャンルの列挙が批評だと信ずる者がいる。それは襞の切断。多種多様な分岐を切断を強要する愚劣はこのような主体性に満足することだ。少なからずそんな映画人は現代の映画人の生産に手を科した訳で同じ源流に生まれた映画を知らない映画人をカタワノ子と決めるのはおかしな話である。まるで自主映画のようだという悪しき紋切り型の批評は、軽蔑にも及ばないであろう自らの愚劣を露呈し、自らの貧相な引き出しの中に収まるもの以外をそっくり外に捨てる。この排他的でしかない映画への接し方が正しい否かではなく、その手からこぼれ落ちる映画の流れを自らに流すことが出来ないことが不幸であって、もはや否定的なものの過剰が映画を模造へと生成することが、ただただ悪に過ぎないと決めつける懐古主義的な映画人は、これから生まれるであろう映画に想いを馳せることが出来ない故に映画史とは別の、あの恐ろしいまでの過誤の映画史を形作っている事を自覚してくれ。