アントニオーニの夜とゴダールの軽蔑について書きたいがそれは後日。

感傷的な気分のとき、限りなく1人でいる時間の中で他者の存在を噛みしめている。どうしようもなく孤独であるわけではない。何ものかへ向かって個人が個人の内に語る言葉ではなく、語り得ないことを個人の内から個人の外へ語る瞬間の絶えざる反復が個人から始まり個人と他者の狭間の深淵、それは限りなく遠く限りなく近い存在(深淵こそ1つの存在)としての自己とそれ以外が区別することなく集合体として帰結する。実家の家が建っている場所は昔、畑だった。母方の祖父と祖母が耕していた畑だった。夜、東京ほど明るくない暗がりの中で、微かな明かりがこの頭蓋の中に開いた2つの窪んだ眼の中に一種の自発性を帯びて、自ら光を発する如く、暗闇を暗闇と思い留めない何かが、僕にはかつてそこで育てられていた無数の植物、あるいはそこに生息していた生物の未出現の眼差しが朴訥と光を灯しているように思えた。