川部良太監督作品「そこにあるあいだ」を何度か観た後。宙づりのまま。

そこにあるいくつかの事物は、事実として映画内で「幅」を示す。それは対義的に、人間と人間、人間と場所、場所と場所、場所と虚構、虚構と虚構というふうな幅で、何もこういった横の地平だけでなく、垂直的な対義もあり、空と地などでも示されている訳だが、そもそも語る主体が多種多様であれば世界は多元的にも存在しうるし、この映画ではそれが抽象的に語られる訳ではなく、辛うじて知覚されるだけの「あいだ」もしくは、様々な事物の背後(飛行機や電話やおもちゃ)から世界はある事実の上で一元的に存在するとも示される。一元論?というかこの世界から逸脱してしまいかねない強度のない何ものかが逸脱せずにすむようなプロセス?それはきっと人間が人間自身を中心としたときにしか持ち得ない自然観であったり、そこから排他的に何ものかに属すことでしか成り立たない何かでもある。絶対的に存在しうると断定できるが何の強度もない「あいだ」。それは差異とだけ文節される「あいだ」。またはばらばらになってしまった家族の何かであったり、ある場所に留めていてはくれなかった何ものかであるかもしれない。僕は映画をみてそれを事実として再認した。再認の前提となる根拠もないが、それは微かにそう呟けるだけの事実だけれども僕はその何ものかについて否定的な解釈を克服することが出来ない。だからどうしても克服しなければならないと躍起になるのはそれが映画的な物語の中の悲劇が悲劇のまま終わっているはずはなく、何かしらの真実がそこで語られていると予感するからだ。だからそこで宙づりになった真実はまったくもって僕の知りたいことしか教えてくれないけれど、それでも僕は映画作品の中の真実の判断は映画作家の負うべきものと考えている。だから監督が「そこにあるあいだ」で示した真実をどうにか分かりたいと思い何度も映画をみることになりそうで、きっとこのプロセスこそ重要と言うかもしれないが僕にとっての現実とは観念的でしかなく、ただそこに誰か他者が実在し対話していることを情念の作用として信じているというか再認している。目の前の映画がモノになるときがあると信じている。そのときこの幅は自己存在そのものと言っていいかもしれないものになるだろうし、幅は幅そのものとして存在してはいるけれど、やはり映画を媒介した自己をさらに媒介したときにしか知覚できない「あいだ」は儚いものだと思う。それ事態は、やはり人間だけのものになってしまいかねないのではないかという疑念もあるが、そのことも肯定しつつ、映画があり映画を観て、その後はじめて映画の内に従属する自己の表象的なものを、僕は憂愁と言うべきかもしれない。幅があるということは、「ある」という言語的な表象の現前で、それは実在ではなく、潜在的なままのものだ。その潜在的なままの、事物の副産物と呼べそうなものを辛うじて知覚するということは、とても不安で恐ろしく、苦痛をともなう。しかし、その痛みや孤独が必要だと思っているものたちのことを再認識することは希望だった。僕は自殺するコップのことに固執している。彼らは死にたかったのか、生きたかったけど僕たちのために死んだのか、それとも僕がそう思いたかっただけなのか。これは僕なりの幅の思考で、その意味で自同律の不快を噛みしめている。