死なない登場人物について、死ぬ前に死ぬ。

「クイーンオブヴァンパイア」の吸血鬼(レスタト)がロックバンドと手を組んで企てたのはロックスターになることだ。バンド『ヴァンパイアレスタト』はたった数カットでビックバンドになり(誰も彼が吸血鬼とは知らないがファンは吸血鬼的な吸血鬼を崇拝する)、記者会見を開く。そこにレスタトの姿はなく、衛星中継で会見場に現れる。そして、ロンドンで1回きりのライブを行うと宣言する。記者は「なぜ1回か?」と質問する。レスタトは「反復は嫌いだ」と言う。また、別な記者が投げかけたジョーク「なぜ吸血鬼が姿をみせるのか?」には真剣に「今の時代には必要だ」という。吸血鬼映画の吸血鬼は吸血鬼であるというコード(夜、吸血鬼は人知れず生き血を吸う)はここで覆される。現代的な時間の先端を嗅ぎ付ける吸血鬼の非人間的な時間の分割法は彼が何百年を生きているということでも示され得るが、一方で人間的な恋に落ちる吸血鬼像という官能的なイマージュも吸血鬼が人間的な時間の中で非人間であることを諦めるという悲哀、すなわち吸血鬼をやめるという呪いからの不可能的な夢想は、非人間中心主義的な時間の分割法を示す。それはヒーロー映画が始る前に脳裏に刻み込まれた感覚すら前提としない。ヒーローは市民に奉仕するというヒーロー映画のコードは、もはや通用しない。映画内のヒーローがヒーロー映画のコードに束縛されずに、戦う原動力を転化させるのは「ダークナイト」におけるバットマンにもみられる。そこでは善悪二元論的なものはなく、ヒーローの形而上学に呪われたファンタスムバットマンの苦悩がある。これまで使い古されたコード、ヒーローが必要な世界のメタフォリカルな暗示は、もはや何も解決しないというニヒリズムはあまりに残され過ぎた問題の前で肥大化しすぎた。ヒーローすらサジを投げずにはいられない。それは自然なことだ。「ハンコック」では嫌われ者で性格が酷く悪い酒浸り黒人ヒーロー(ウィルスミスという現象)が自ら戒心し、また市民を快適に救うようになる。快適に、というのが肝だ。これまでは投げやりに仕事をこなしていた、それでもやはり市民に奉仕していた。少年に悪態をつかれようが。しかし、ある宣伝マン(新しい主人は一般人)の企てによって市民を快適に満足させる。このソーニャ的な自己犠牲精神によってヒーローは自らの思索性を投げ出さなくてはならない。
または「Mrビーンカンヌで大迷惑」におけるビーンの徘徊。ビーンは映画的教養を持った人間を満足させるようなやり方では映画史を旅しない。ビーンは現代的な映画史の先端部分、今、作られようとしている映画史を旅する。ビーンは抽選でカンヌ旅行を当てるが彼の目的は映画祭ではない。1枚の絵ハガキに写された砂浜だ。彼はハンディカメラを片手に自らを記録しながらカンヌを旅する。それがひょんなことからコンペティションの樹影中に流れてしまうというだけだ。これで趣味の悪いウォレムデフォー演じる映画監督は喝采を浴びる。
「オースティンパワーズゴールドメンバー」の序盤はオースティンパワーズの映画内映画で始まる。オースティン役にはトムクルーズ。ヒロインはグウィネスパルトロー。Dr.イーブルはケヴィンスペイシー。ミニミーはダニーデビート。監督のスピルバーグはオスカーをちらつかせて張本人のオースティンを黙らせる。