日本人には旧約聖書的な「主人」は存在せず、

イザヤ・ベンダサンの著作「日本教徒」によると日本は無宗教ではなく、日本教徒であると言う。それは「人間らしさ」「人間味」と言った言い方にもみられる神学ならぬ人間学、人間信仰で、例えば、日本人がキリスト教徒やユダヤ教徒などと接する機会があるとする、すると「人間味溢れる方だから尊敬できる」と平気で言う。この人間味とは何か。単に近代的なニューマニズムではなく、それを根拠づけるのは、隣人との暗黙の契約、それはキリスト教的な主人ではなく、今現在、隣にいる、もしくは来るかもしれない誰か、それは限りなく人間である。生者であれ死者であれ、人間である。

一部のオカルトを除いて、いかなる契約、輪廻などもない。日本は世界唯一のヒューマニズム国家であるかもしれない。すぐに反論があるだろう。日本は八百万の神々を信仰していると。しかし、それらの神々は民間信仰の中で文字通り八百万に宿る訳だが、それは人間の望む形においてのみである。神道と仏教の間で引き裂かれる。信長VS本能寺で語られるのは信長の無念の死。 旧約聖書の民(キリスト教徒、ユダヤ教徒イスラム教徒の三大宗教)における契約という概念は日本人の宗教観にはない。書物にせよ啓示にせよ、実体のあるものではない、例えば行間などにあるとされる。この行間という考えこそ、それらの解釈法と決定的に違う。聖書に書かれていることが真であって、行間に真はない。日本人における思考様式はこのように霊的なものが前提となる場合がある、空気を読むもその一部。一方で唯一の神が前提となる思考様式には日本人的な空気などない。