それは誰もが身に覚えのない映画の話。

逸脱した映画史を形作ること、それが映画の上映活動を行っていく上で考えたことだ。映画をみせなくてはならないと差し迫った時、そこで映画産業ということより貨幣経済そのものを考えずにはいられなかった。確固たる前提。それを克服することなどと考えるわけでなく、映画の本性は資本主義的だと思う。自分以上に人にみられることを欲する映画は恣意的でもある。そんな中で何の強度も持たない映画を持っているもの、微かに映画と呼び得る映画を持っているものたち、出現に至ることなく未出現のままに留まることを選択し出現した映画。映画館に行かずとも、DVDプレイヤーを使わなくとも、記憶の中だけでもなく、記憶にまったくない映画とも言えない映画史という不確定の中心があって、それが点か線か、もしくは波動のような状態なのか、ただ、すべての映画は映画史という不確定の中心に向かい、また反発する遠心力から免れ得ないと言えそうで、そこで、もし逸脱した映画史があるとすれば、それは実在した映画や実在しなかった映画の全総合だけにとどまらず、自らの暗い頭蓋の暗箱の中にだけ身を窶した映画、すなわち未出現の映画がその大半を占めるように思われる。ここで、暗い頭蓋と言われた身体的な部位が暗箱と隠喩された映画館の如く示される訳ではなく、それがある人には腹であったり腕であったり、鏡や窓に映る景色や便器の水面であっても当然と考える僕の頭蓋はある不健康なもの、それはレンズのないカメラという矛盾を含んだカメラについての思索を欲望させるのである。半ば無意識的な活動とされそうなその頭蓋の運動は、独自の生命活動を欲する頭蓋の中の未出現について限りなく意識的に思索するのである。未出現を思索するとはどういうことか。それは誤謬の内に帰結する一種の戯れ、笑いである。それも個人が個人の内に秘めた思い出し笑いの不自然で不格好な顔面が象徴する虚構。それは個人が個人の内に内含するものでなく、個人が他者を意識的にまたは無意識的に前提としたときに現れる個人のものでもなく他者のものでもない、またそれらを区別したときに現れる間の、限りなく深淵なものでもなく、両者の集合が、個人の未出現を他者の未出現に贈与するということである。未出現は個人の思考によってすでに出現してしまうが、それが何物か、または何者かに向かう思索である以上は他者にとって他のものにとっての未出現のままに留まるのである。逸脱した映画史というものがあったとすれば、それは、それをかつてあったというものの語りでしか知覚できないようでいて、限りなくどこにでも実在するものである。個のものではなく、他のものでもなく、その間にあるでもなく、点や線のようでもなく、川部良太さんが言っていたように辛うじて線と思しき線を形作るような点線としての映画史。ただしそれは存在していたかもしれないし、していなかったかもしれない。どっちでもいいもの。